5歳〜14歳

 

はじめて父が怖いと思ったのは、5歳くらいの時。父の祖母が家に遊びに来ていて、私は珍しいお客さんと一緒に遊びたくて揺さぶったりパンチをしたりした。当時は相手も笑ってくれているからそれが楽しいんだと勘違いしていて、正しいコミュニケーションの取り方がわからなかった。祖母に育てられておばあちゃんっ子の父はそれを見てブチ切れ、私を何度も蹴り飛ばした。私はどうして蹴られているのか、父が怒っているのかわからなかった。

 

次は、家で父と遊んでいた時、私は珍しく父が遊んでくれることが嬉しかった。けど、どうしたら父が楽しんでくれるのかがわからなかったからとりあえず軽く蹴ってみたら、笑ってくれた。私が蹴ると笑ってくれるのか、と勘違いした私はだんだん強く蹴り始めた。

すると笑っていた父がいきなり怖い顔をして思いっきり蹴り返してきた。父は、蹴られたら痛いだろう、みたいなことを言っていた気がするけど逃げることに必死であまり耳に入らなかった。けど、その時初めて人を蹴ったりしちゃいけないことがわかった。

居場所がなくなった私は家の裏の公園に逃げた。

 

小4で引っ越しをするまでの間、犬を3匹と猫を1匹飼っていた。

やんちゃだった猫に対して父はしつけだと言い壁に投げつけたりしていた。猫は1週間くらいでびっくりするくらい大人しくなってしまった。元々野良犬だった柴犬は昔からずっと凶暴だったため、私と母はよく噛まれていた。その度に父は大きな石を柴犬に投げつけたりして躾をした。柴犬は父にだけ従順になった。ビーグル犬は元々大人しくて賢かったけど、散歩中に父がリードを離したため逃げていった。私は、逃げて正解だと思った。なんなら私も逃げたいと思った。ダックスフンドは人懐っこくて父にも可愛がられていたけど、母のストレスの吐け口として横腹を何度も蹴られていた。私は母に泣きながらやめてと言っていたけど、母は狂ったようにダックスフンドを蹴っていたため、内臓が破裂したらしく手術することになった。幸い命は助かって、引っ越しをするとき父の知人に譲った。その知人はとても大切に飼ってくれていたみたいで、数ヶ月後に再会したときダックスフンドはシャンプーのいい匂いがして毛がつやつやだった。猫は父が外に放して野良猫にした。以前何度か脱走していた時に近所の野良猫と仲良くなっていたみたいだし、元々野良猫だったので強く生きてくれるはず…と思った。けど大好きだったダックスフンドと猫とのお別れはつらくて、車の中で父にバレないように泣くのを我慢した。

 

小学四年生のとき。

引っ越しをして転校もした私は、友達はすぐにできたけど、他の子と自分の家庭環境があまりにも違うことに気づき、比べて妬むようになっていた。とてもひねくれていて根暗で無口な奴だった。このころからパソコンで年上のネット友達と話すようになったこともあり、自然とリアルの同級生とは話が合わなくなっていった。その代わり、安心できる唯一の居場所だったネットに依存していた。ネットの友達と掲示板で話したりオンラインゲームで遊んだりみんなでブログやホームページを作ってリンクし合ったりお絵描きチャットをして遊んでいたことが私の唯一の楽しい思い出だった。

つまらない授業に、幼稚に見える同級生たちに、自分が惨めに思える学校にはいく気になれず、ついに登校拒否をし始めた。朝、学校に行きたくないと母に対してごねていると、父が起きてきて後ろから私をキッチンのトレーで殴ろうとしてきた。私は驚いて、父が怖いことを思い出した。トレーで殴られることは免れたけど、あまりのショックでマンションの階段でしばらく泣いた。

そのとき誰か大人が階段を横切っていったけど、一瞬足を止めてから声はかけずに去っていった。このとき、人間がとても冷酷に思えて、虚無感に満ち溢れながら登校した。

 

それをきっかけに、父の暴力は頻度も程度もエスカレートしていった。

大体月に一度は機嫌が悪くなる周期があって、小学5年生になる頃には、もうすぐ父が暴れ出す頃だな〜と予知できるようになっていた。そのため家に帰って父の部屋の前を通り過ぎる際は父に見つからないように音を立てずに素早く通り過ぎたりしていた。

父は私がどうしてそんなことをしているのかわからないらしく、どうしたん?と笑っていた。私は、父を避けていることに気づかれたら怒られるんじゃないかと思って冷や汗をかいた。

この時、父が私を怒るときの理由は、徐々に理不尽なものになっていった。

はじめのうちは、私が登校拒否したときに家にいると殴られ、深夜までネットで遊んでいた時パソコンを壊すと脅され、体調不良で早退した時熱があっても学校にはとにかく行けと言われ、物を出しっぱなしにした時運悪く父が踏んでしまい殴られ、母と喧嘩して暴言を吐いたとき母に喧嘩うるのは俺に喧嘩売るのと一緒だと言われ、弟に蹴られたり物を壊された時に私が怒ると私が悪者になりさらに殴られ、友達の誘いを断ってゲームをしていたとき、友達は大事にしろと言いながら友達の目の前で窓から背中を蹴り落とされた程度で、暴力さえなければ父の主張もわからなくはなかった。

 

けど、小学6年生から中学2年生の間には、父が私に怒る理由が理解できないものになっていき、私は自分がストレスの吐け口にされていることに気づいた。

例えば、休みの日でも朝の7時にはアラーム無しで起きておかないと殺すとか、長年使っていたゲーム機が寿命で壊れたとき私が壊したと言い何度も笑顔で叩かれたり、母が閉め忘れた扉を私が開けっ放しにしていたと言い殴られ、私の写真を知人に配り、こいつを見つけたらいつどこで何をしてたか報告するように指名手配みたいにされて、私に似ている子を夜中に見かけたという全く身に覚えのないことで問答無用に暴行された。暴行している際に私が泣いていると、泣いたら殺すと言いコンクリのブロックを手元に置いていたりした。

 

父が2階から降りてくる音や庭に車を停める音が聞こえると体が硬直して、自分がなにか殴られるきっかけを作っていないか瞬時に考えた。視界に父がいるときは、なるべく自分の存在感を消すためその場で1ミリも動かないようにしていた。夜中や朝、父が寝ている時間帯は音を立てると怒られるため、トイレに行くときや学校の支度をする時はドアの開け閉めや廊下を歩くときの音などを暗殺者のごとく消せるようになった。父が冗談を言ってきたときは、全力で笑うようにして機嫌をとっていた。学校でも足音を立てずに歩いて、ドアを閉めるときはドアノブを回してから閉める癖があり、いつも周りの人を警戒していた。そんなことがあったため、私は大人になるまで自然と相手の顔色を伺うようになった。けど大人になってからは、自分を守るために相手の顔色を伺うのではなくて、相手のために相手の立場になって気持ちを想像することができるようになった。

 

母は私と喧嘩をするたびに、父に報告すると私を脅すようになった。父を盾にして自分を守った。それだけ弱い人間だった。それから母と喧嘩中、父が庭に車を停める音が聞こえると、私はすぐに母に謝り抱きついて震えながら母と仲良しなフリをした。

 

私の弟は、生まれつき心身ともに重度の障害を持っていた。私は弟が生まれた時から弟のことが大好きだった。時には障害を理解できない時もあったけど、尚更お姉ちゃんとしてしっかりしないといけないと思った。そんな弟は障害のため感情表現が難しく、赤ちゃんがなにかを訴えて泣くように、何かを訴えようと私の髪を強く引っ張ったり、足で蹴ったりしてきた。私が弟に蹴られていても母は止めてくれなかったので、私は逃げずに意地を張って蹴られ続けたりした。「私はいつか弟に殺されるんだ」と言って泣きながら蹴られていたこともあった。その時は自分でも大袈裟だと思いながら言っていたけど、弟が成長するにつれて体が大きくなり、下手したら本当に人を殺せるくらいの力があった。実際、成人した弟が小さい頃と同じように暴れ出すと、成人男性が2〜3人いても誰も近づけないほどだった。弟を施設に預けることになった後、毎日お世話をする職員さんはもちろん、ときどき家に連れて帰った時には私や母はいつも血が出るほどの怪我をしていた。

弟は施設に預けられてからずっと、私と母と一緒に暮らしたいと思っていた。面会の後私たちが帰る時間になるといつも泣きながら不自由な脚で追いかけようとしていた。けど、弟と一緒に暮らせる環境を作るのは、私たちには出来ない。そのせいで弟は時間が経つにつれてどんどん心を閉ざしていった。私たちの声を聞いたり顔を見るだけで暴れるようになった。小さい頃、表情やボディランゲージで弟の気持ちがわかっていた私にとっては、弟がなにを考えているのか全くわからなくなった今がとても辛い。私は弟になにもしてあげられないと思って、弟のことを考えるたびに鬱になって死のうと思った。だから、あまり弟のことを考えないようにしようとして、面会や電話も少なくなっていった。それはそれで、弟を見捨てているようでまた死にたくなるほど辛い。

私は必死で弟が喜ぶことを考えた。小さい頃好きだったものを参考に、弟でも遊べるおもちゃや弟が好きそうなものを考えてプレゼントした。面会中も、恥を捨てて小さい頃のように体を張ってふざけた。そういうとき、たまに弟は笑ってくれた。普段耳を塞いでずっと下を向いているので、顔を上げてくれるだけで嬉しかった。弟の笑顔が見られた日は、本当に本当に嬉しくて、ほかにどんな辛いことがあっても気にならないほど幸福感に満ちていた。

 

父と母が弟の世話を私に押し付けるようになってからは、私は弟と2人で寝るようになった。夜中にも弟は蹴ったり髪を引っ張ったりするため、私は常に睡眠不足だった。父や母のことでストレスを抱えていた幼い私には、弟の障害を理解して自分を制御し切ることは不可能に近く、ただ目の前で私を苦しめる存在を許せなくなった。家庭内で唯一私よりも弱い弟に対して、私は父にされたことと同じことをした。顔に水をかけたり、血を吐くまで蹴ったり、寒い廊下に置き去りにしたり、姉として人として最低な行いをした。私は、1番大嫌いな父と同じことを弟に対して行った。そうしなければ、自分を保てなかった。血を吐きながら防衛本能で笑う弟を見て、本当に怖く思った。そして、今でもその当時弟にしたことを思い出しては死にたくなるほど後悔する。けど、絶対に忘れないようにしている。せめて弟には幸せに生きてほしいと思っている今は、私のせいで今も弟は辛い思い出に苦しめられているのではないかと思う度に、過去に戻ってやり直したいと強く思う。意思疎通のできない弟から、私は一生許されることはない。

もちろん、自分で自分を許すこともできない。

 

私は次第に父や弟からの暴力に慣れて、殴られている時も力を抜いて無表情でただ時間が過ぎるのを待っていた。誤解をとこうにも、言い訳をするなと殴られてしまうのでなにも話さなかった。泣くこともなくなった。けど、私が泣かなくなるとそれはそれで腹が立ったのか、同じ箇所を蹴り続けたり痛すぎて泣くまで蹴られたり殴られたり髪を引っ張ってぶん回されたりした。

ある時私は精神的に耐えきれなくなり、泣いたら殺すと脅されていながら発狂してしまい、気づいたら自分でも聞いたことのないような金切り声をあげてうずくまっていた。

それには父も驚いたようで、なにか暴言を吐きながら立ち去っていった。私は何が起きたのかわからずしばらくぼーっとしていた。

 

父は、時々私を守ってくれることもあった。

私が学校の男子に石を投げられたと言ったら学校まで足を運んで直接その男子たちを呼び出させて怒鳴り散らしたりしてくれた。そういうときは、父の怖さがいつも私を守ってくれればいいのになと心底頼もしく思えた。けど父は、ただ人を怖がらせるのが好きなだけだったらしく、腕の刺青をちらつかせたら男子たちが泣いて震えてたということを笑いながら楽しそうに母に話していた。

 

父に強制的に連れ出され、夜遅くにフィリピン人のキャバクラに連れて行かれたことがあった。そこで父は、いつも指名しているお気に入りの若い女の人を隣に座らせていた。小学四年生だった私は、綺麗な女の人たちや父の知り合いのお客さんたちに可愛い可愛いとちやほやされて少し嬉しかった。父のお気に入りの女の人に、カチューシャをプレゼントしてもらったときは、嬉しくてしばらく学校につけて行っていた。そのキャバクラで、初めて父とカラオケをした。私は西野カナのベストフレンドを歌って、父は大好きな長渕剛を歌っていた。初めて父とカラオケをして、初めてお互いのことを知れた気がして、嬉しかった。父の友達からは、私が父より歌がうまいと褒めてもらったりして、フィリピン人には西野カナの選曲が好評だった。

 

夕食の時はいつも、母と弟と私の3人だった。母は障害のある弟にご飯を食べさせながら、いつも父の悪口を言っていた。毎日母の愚痴を聞かされながらとる食事はとても居心地が悪くて、母のストレスが私に移し渡されているみたいだった。けど、父がいるより平和だった。

 

6のときまた引っ越しをして、前の学校に戻った。たった2年であまりにも根暗な痛い奴になったのにもかかわらず、小さい頃から私のことを知っている同級生たちは、以前と変わらず親切に接してくれた。だから私も、そんな同級生たちを妬んだり巻き込まないよう、学校では教室には行かず、別の教室で一対一の授業を受けさせてもらっていた。

 

小学四年生の時、私は両親に対しての恨みが極限まで達していて、深夜に包丁を持って両親のいる2階の部屋へ行こうとした。けど、本当に自分が包丁なんかで両親を殺せるのか確信がなかったのと、返り討ちにされるんじゃないかと思ってなかなか勇気がでなかった。1時間くらい階段の下で壁や床を包丁で刺しながら自分の非力さを悔しんだ。

幸い、家中の壁は父が暴れた形跡のおかげで私が刺した包丁の跡は目立たなかった。

 

中学生になってからは、先生や大人に対しての怒りが出てきて、真面目に頑張っていたけど少しずつ非行に走った。

先生につらいと相談したとき、「みんなつらいのは同じだけど頑張っている、お前も頑張れ」と言った。けど、みんなが私と同じくらいつらいとは思えなかった。きっとその先生は、中学生の悩みなんてどれも同じようなものだと思っていたんだと思う。少なくとも、私とは向き合っていなかった。

その頃父は毎日外で遊んでいて1週間家に帰らないこともよくあった。

5のときに父と二人でドライブしていたとき、父に言われた言葉を思い出した。

「母と結婚したのは失敗だった。今から女の人と会ってくるけど、母には内緒な。」

あまりにも母が不憫だと思ってこっそり報告したら、母はすでに気づいていたみたいで、驚かなかったけど、泣いていた。

ある時からパンツが派手なものに変わっていたらしい。

母もときどき父に怒られていた。

食器を投げつけられたり、ひどいときは食器棚ごと倒されたりして、ご飯がまずいと言われて、2階の父の部屋からはよくご飯の入った食器が投げ捨てられていた。

私は夜に母の命乞いを聞きながら震えながら寝て、朝起きたら廊下からキッチンまでが割れた食器と残飯で溢れかえっていたときもあった。

学校なんかに行っている場合じゃないとは思ったけど、行かなかったらまた父が暴れ出すから仕方なく食器の破片を避けながら支度して登校した。

 

中学生になって、私は変わろうと思った。

学校では明るく真面目で、ちゃんと授業にもでていた。ふつうに友達とも遊んだ。家のことを忘れて友達と少しやんちゃしているときは結構楽しかった。けど、不良同士のタイマンとかは嫌いだった。超絶暴力反対人間だった。と思いたいけど、本当は家庭のストレスでできることなら人を殺したいと日頃から考えていたので現実にならないよう極力揉め事には関わらないようにしていた。

ちゃんとした学校生活をして、いい成績をとっていても、父から褒められることはなかった。

それどころか、体調不良で早退したときは、熱湯をかけられて腕と胸のあたりを火傷した

その時、父がニヤニヤと私が早退したことを話しながらお湯を汲んでいたので、私は熱湯をかけられることをわかっていたけど、逃げたら父の機嫌が悪くなると思って動けなかった。かけられた後は痛すぎてすぐに冷やさないといけないと思って洗面所に走っていったけど、父が追いかけてきたのであまり冷やせなかった。

 

この頃の父は、毎晩遅くまでお酒を飲んでいて、フラフラな状態で車を運転しては向かいの家の柵や自分の家の壁に車をぶつけながら帰ってきた。

私を怒る時もいつもお酒臭くて、息切れしながら私を殴って、ニヤニヤと笑っていた。私が怖がる顔をみるのが楽しいのか、頭がおかしくなったんだと思った。

 

中一からバレーボール部に入部して、部員の中で唯一未経験で1番下手くそだったけど、誰よりも早く朝練に行ってフローターサーブが入るように頑張った。この頃、今までの人生で1番頑張っていたと思う。どんなことでもいいから何か変わってくれればいいと思っていた。夏くらいになってやっとフローターサーブができるようになって、顧問の先生にも褒められてすごく嬉しかったけど、父の暴力がエスカレートして全身が痛いためバレーができなくなった。どれだけ時間をかけて努力を積み重ねても、誰かの悪意でいとも簡単に台無しにされてしまうことを知った。

友達に軽く肩をトントンされただけで激痛が走ったし、夏に半袖をきてあざだらけの体を晒していても誰もそのことに触れなかった。

もちろん、学校の先生達にはとにかく家庭内暴力を受けていることを相談しまくった。藁にも縋りたいほど追い詰められていて、毎日学校の廊下で人目も気にせず泣いていた。

けど、誰も家庭の事情には干渉できない時代だった。警察にも相談してたけど、なにも変わらず家に返された。父は法律に詳しかったので、自分が捕まらないと確信を持って私を暴行していた。

 

家庭訪問のとき、学校の先生が家に来た。

私はその先生が大嫌いで、自分の傷だらけの心に土足で踏み入ってくるような感覚になって追い返そうとした。そのとき父が家にいることに気づかなかったため、全て父に聞かれていた。父は激怒し、先生の目の前で私の胸ぐらを掴み姿見に叩きつけて暴言を吐いた。

先生は正座のまま肩をすくめて硬直し、「家庭によって教育方法は様々ですから。」と目を背けながら言った。

 

母と家庭相談所に行くようになって少し希望が見えたときもあった。父と離婚するための相談を進めていた。私は、時間はかかっても父から解放される日が来るなら喜んで待てた。けど、母は父に一晩抱かれて寝返った。

私たちが父を怒らせないように気をつけていればいいんだと言って、私が殴られるのも、私が悪いんだよ、わかるよね?と言われた。

私が父に暴行されている時、母は眠そうに階段を降りてきて、また〇〇がなんかしたの?と言い、しばらく観戦したあとに、そろそろやめてあげてと強がりながら父に言うけど突き飛ばされて黙ってしまう、というのがいつものことだった。

当時私は恐怖の対象の父に腹を立てるよりも、傍で見ているだけの母を恨んでいた。

 

父の暴力が日常的になり始めたときからずっと、毎晩一人で打開策を考えていた。

どうしたら今の状況を変えられるのか、私には何ができるのか、母は自分たちが我慢することしか考えられないから私がどうにかするしかないと思った。

けど、どれだけ考えても子供だった私には難しすぎる問題で、何もできないと思わされるたびに泣き寝入りしていた。

唯一私にできたことは、今までの出来事を絶対に忘れずに父の暴力を許さないことだった。父がDV加害者の典型で、母はDV被害者の典型だと知っていたから。

そのため、私は他の人よりも小さい頃のことをよく覚えている、というより忘れられずに今でも苦しんでいる。

 

中2の初秋、物理的に首が左右に曲げられなくなっていた。

ストレスかなんなのかわからないけど、とにかく首が横に動かせなかった。

友達に声をかけられても応える気力がなく、ただゆっくり前に歩いていた。

当然友達には嫌われて、クラスメイトからいじめを受けたこともあったけど、私にとってそんなことは感情制限ができない弟に髪を引っ張られることと変わりなかった。

1ヶ月間首の鞭打ちが治らなくて授業中ずっと頭を上げているのが辛くて机に伏せていたこともあった。先生は、そんな私を注意することも事情を聞くこともなかった。

 

中二の時私が決死の覚悟で夜中に家から逃げ出して一時保護された後、母も続いて逃げてきた。私がいなくなったことで、父の暴力の矛先が母に変わったのだという。

その後一文なしでシェルターや母子寮を転々として、やっと自立できたけど、母との関係は最悪だった。

母はシングルマザーになり、新しい仕事で忙しく、私の話を全く聞いてくれなかった。それに、私が母に守ってもらえなかったことを言うと自分も被害者だと主張した。思春期の私の気持ちとちゃんと向き合うほどの余裕は、母にはなかった。

シングルマザーにはなったけど、父は働かずに家のお金を盗んでパチンコや夜遊びに使っていたので、実際暮らしは以前より豊かになった。

あまりにも突然の平和な生活に違和感を感じながら、母との関係や過去のトラウマとの戦いが始まった。

 

父と一緒に暮らしている間は、どんなにつらくても死にたいとはあまり思わなかった。毎日いつ殺されるのかと怯えていたので、むしろ生きたいと思っていた。

父から解放された後から、私はどんどん精神を病んでいき、死にたいと思うようにもなった。リストカットをしてみたこともあった。父がいたときよりも平和になったはずなのに、不思議だった。たぶん、死にたいと思える余裕ができたんだと思う。あの時、中途半端に辛くなくて逆に良かったのかもしれない。

 

精神科にかかったときに過去の話をしたら、よく生き延びたね、と言われて泣いた。母はいつも第三者がいるときだけ、泣きながら自分がこんなんでごめんねと私に謝る。そんな母を私は冷淡な目で見ていた。きっと、私がこんな環境に生まれた理由は、この人生を強く生き延びることが私にしかできないことだからだと思った。

4から中2までのたった4年間だけだったけど、24歳になった今でも思い出さない日はない。いつまでこんな過去の記憶に苦しめられるのかわからないけど、とにかく私は頑張って生き延びたんだから、これからの人生は誰よりも何にも囚われずに楽しみたいと思う。

毎月心療内科に通いながら、他の人が当たり前にできることができなくなってでも、前を向こうと生きていることが私にとっては誰にもできない偉業だと思いたい。