14〜24歳

中学2年生の秋、家から逃げ出して一時保護所で1ヶ月過ごした後、母と2人でシェルターから母子寮に移った。

 

一時保護所では、5歳くらいから17歳くらいの子供が5〜7人くらいで生活していた。私は深夜に連れてこられたため、その日は夜勤の職員さんとしか会わず、マニキュアを落とされて個室で寝るだけだった。

次の日朝起きたら知らない子たちがたくさん廊下にでてきて顔を洗ったり歯磨きしたりしていて、人見知りが酷かった私は戸惑った。特に、唯一年上の高校生の女の子が怖かった。

一時保護所では、あんまりいい思い出がない。ときどきみんなで山登りしたり広い公園に遠足へ行ったりした。別の棟に教室があって、そこで学年がバラバラな人たちと一緒に勉強した。私はこんなところでも勉強をしなきゃいけないのかと思った。粘土で焼き物を作ったり編みぐるみを作ったりいろんな工作もした。施設内の小さいグラウンドみたいなところでバドミントンしたりサッカーしたりもした。けど、私はどの活動もあんまり楽しめなかった。たった1ヶ月の間に、新しく人が入ってきたりいつのまにかいなくなっていたりした。けど、小さい頃からずっと何年もそこで生活してきた子が2人いた。高校生の女の子もそうだった。当時は18歳になったら一時保護対象から外れるみたいで、家に帰される話を職員としていたその子は号泣しながら怒っていたこともあった。普段ツンツンしていてクールな人だったので、びっくりした。

少人数の生活でも施設内でいじめはあった。幸い私は虐められなかったけど、高校生の女の子にキツいことは何度か言われた。私は5歳の女の子と男の子たちとよく一緒に遊んでいた。弟と一緒に遊んでいた時を思い出して、一時だけでも良いお姉ちゃんに戻りたかった。

2週間くらい経ったとき家から連絡があったらしく、そろそろ帰ってこい、もうなにもしないからと、父と母が言ってきたらしい。私は、本気で言っているのか?と疑った。反抗期の子供が家出して親戚の家に行った程度に思っているのか、いきなりもうなにもしないと言われて信じられると思っているのか、まず自分たちが悪いと全く思っていないようで一言も謝罪はなかった。それどころか私がなかなか帰らないことに対していい加減にしろと言っていたらしい。

私は帰るわけがなく、職員さんも、帰りたくなかったらここにいていいんだよと言ってくれて安心した。警察みたいに家に帰されることもあるかもしれないと心配だった。

それからさらに2週間くらい経って、母が逃げてきたと聞いてからすぐに母と合流してから隣の母子寮に移った。けど、次の日父が柄の悪い友達を引き連れて母子寮まで怒鳴り込みにきた。ずっと、子供を返せコラとか、誘拐だとか怒鳴っていた。私と母は職員さんに連れられて、隠れながら車まで移動して逃げた。

そこで県内でも遠い場所にあるシェルターに移った。

 

シェルターには、同じ境遇の女性や親子連れが少人数いた。その中で私は、2人の女の子と出会った。2人は私より年下で、妹(さあや)ダウン症だった。私は毎日暇なので2人と遊んだ。シェルターの中にアップライトピアノがあったので、お姉ちゃん(おとは)にはピアノでエリーゼのためにを教えた。その子は片手だけどすぐに弾けるようになった。ダウン症のさあやとは、あまり積極的に関わらなかった。自分の弟と重なって辛くなったから。けど、ときどきおにごっことかかくれんぼをしたと思う。

食事や洗濯など、シェルターにいる人たちで協力しながら生活をした。GPS機能のある携帯バッテリーを抜いて預けて、外には一切出られなかった。どうして被害者の私たちが逃げて隠れて不自由な生活をしなければいけないのかと思った。けど、シェルター という施設があることがとてもありがたかった。

夜寝る時間になるとおとはが天井を見つめながらなにかぼそぼそと独り言を言うので、私はどうにか安心して眠れる方法はないか探した。施設内の収納棚や引き出しを勝手に漁っていると、オルゴールをみつけた。試しに夜寝る時そのオルゴールを鳴らしてみたら、おとはは余計に辛くなったらしく、私の計らいは失敗だった。

 

1ヶ月後、私と母は受け入れてくれる母子寮が見つかったためシェルターを出た。母子寮では8世帯くらいの同境遇者がいた。私と同い年の女の子(ななちゃん)もいた。一部の人達と仲良くなりいろんな話を聞いていると、私よりも幼くて私よりも酷い暴力を受けていた子がいた。父親に尖った鉄パイプで背中を殴られたりしたという。ななちゃんは、ストレスで目が見えなくなったことがあると言っていた。私はそんな子達と仲良くしたりしなかったり、不安定な関係だった。

 

母子寮に移ってから、近くの学校に編入することになった。一部の先生にだけ事情が伝えられて、私は偽の名前を名乗ることになった。私と母だけではなく母子寮にいる人たちも任意で名前を変えていた。

編入した学校は、前の田舎の学校とは違って9クラスもある進学校だった。生徒は真面目で純粋無垢な子が多く、不良は極々一部しかおらず、やっていることも田舎のそれと比べれば可愛いものだった。

私は転校初日からちやほやされ、ななちゃんは私より先にこの学校に通っていたけど、まだ転校生と呼ばれていた。私とずっと転校生と呼ばれていた。あまりにも世間知らずで純粋すぎるクラスメイトとは馴れ合う気になれず、特に男子は徹底的に無視した。学校生活に支障をきたさない程度にクラスメイトの女の子1人と仲良くしていたけど、当時私の中ではそれすら鬱陶しかった。今思えば本当にありがたいことだった。私が久しぶりに教室へ行くと、ほとんど話したことがない子が心配だったと話しかけてくれた。どうしてそんなに心配してくれるの?と訊くと、「クラスメイトだから」と笑顔で言っていた。それをきいて私は、なんておめでたい頭をしてるんだと思っていた。本当は、親しくもない人に対して優しく接する余裕があるその子のことが羨ましかった。

結局1ヶ月くらいで不登校になり、家に担任が来ても追い返し、家に引きこもってピアノを弾いていた。この頃はじめて自分のスマートフォンを持たせてもらって、ネットにのめり込んでいた。出会い系アプリで知り合った30代後半の男性と夜まで遊んだりした。その人は既婚者で私と歳の違い子供もいた。けど、ただ父親の愛情を求めていた私にはどうでもよかった。それまでの間に何人かと援助交際をしたし、その人と愛人関係になっていた2年間も、別れた後も、続けていた。母への復讐と自傷行為も兼ねていた。

その人と関わってからビールの美味しさを覚えた。

 

私が高校一年生になった頃、母と私は貯めた貯金で母子寮を出て県営住宅に引っ越した。私は高校には行くつもりがなかったけど、愛人からの説得と担任からの熱情に押されて受験した。けど、希望の高校には落ちてしまった。勉強と面接での対話はできていたので、出席日数があまりにも少なかったからだと思う。私的にはどうでもよかったけど、担任の先生から通信制高校の二次試験を強く勧められた。幾度の拒絶にも折れずに私のことを考えてくれた先生の気持ちを無視できなくて受験して合格した。

 

通信制高校に入学してから、すぐに友達ができた。最初は大人しい子だと思っていたけどやんちゃが好きな女の子だった。私はその子といると馬鹿になれた。嫌なことを忘れてイキリまくった。たびたびついていけない、理解できないこともあったけど、現実逃避したかった私には貴重な存在だったので全てその子に合わせた。

けど、その子は夜の世界に行ってしまったため、自然と連絡をとらなくなった。

 

それから母に年下の彼氏ができて、私と最低限よ食費を置いてよく家にお泊まりするようになった。私はバイトもせずに家で母と喧嘩ぐらいしかできなかったので、見捨てられて当然だと思ったけど、母が1週間くらい帰ってこなかった時は許せなかった。

私は家にあった乾燥わかめでわかめスープを作って、1日一食それを食べたり食べなかったりして、朝から夜までぼーっと天井を眺めて過ごすようになった。

援交を始めてから私は自分の容姿を気にするようになったこともあり、拒食症と過食症を繰り返して半年で体重が16キロ減った。

久しぶりに会った友達にはガリガリだと言われたりしたけど、私は自分がまだ太っていると思っていた。

 

それから17歳までいろんな年上の男性と交際して同棲もした。ラウンジやスナックで働くようになった。その時歓楽街で男性に声をかけられてお客さんとして店に呼んだけど、花火大会で同伴をしているときに私が相手を好きになってしまった。相手は親子共に元ヤクザで全身に刺青が入っていたけど、以前2年間付き合っていた男性や父も刺青が入っていたし、そんなことはどうでもよかった。18歳の時、夜の仕事をしながらその人の経営している居酒屋で働くことになった。後で夜の仕事をやめようとしたときオーナーと揉めてヤクザを連れてこられたけど、元ヤクザの彼氏がその場を収めてくれた。

いろんなプレゼントをくれてすごく紳士的に接してくれる彼が、元ヤクザだろうが素敵な人に思えた。やっと、本当の愛情を見つけたと思っていた。けど、あるときから彼は気持ちよくなれる薬を一緒にしないかと言ってきた。私はそれが危ないものだとなんとなくわかっていながら好奇心と自暴自棄で安易に受け入れた。それは覚醒剤だった。注射器に粉を入れて、自分の血液で溶かして体内に戻すというやり方で、正直最初は怖かったけど馬鹿だった私はあまり考えなかった。最初は全てのしがらみから解放されて本当に気持ちが良かった。けど、2回目以降から体が拒絶反応をし始めてただ副作用で苦しいだけになっていた。

もうやめたいと彼に何度も言ったけど、彼は許してくれなかった。薬によって人格が豹変した彼は暴力的になった。私はある程度言い返していたけど、次第におかしくなっていく彼が怖くなって断れなくなった。自分の異常な体調不良に、次やったら死んでしまうと感じていたけど、生きることを諦めて打った。

その日、あまりにも息苦しくて彼に助けを求めたけど変なことを言うなと逆ギレされてしまって黙った。夜になって睡眠薬を飲んでも眠れず、どれだけ水を飲んでも1分毎に喉が渇き、息苦しくて死にそうになりながら朝まで耐えた。朝彼が起きたらきっと助けてくれると信じて待った。けど、彼が起きてきて異常にそわそわしている私を見ると、薬でおかしくなったと私を切り捨てて誰かと電話をしていた。この時私は彼の顔がでこぼことした枯れ木になる幻覚を見た。彼が仕事に行く前、私に「救急車だけは呼ぶな、捕まるのは二度とごめんだ」と言って、私を抱きしめながら釘を刺した。どんなに馬鹿で薬でおかしくなっていた私でも、彼が自分のことだけを考えていることはわかった。ついでに薬のせいで被害妄想が激しくなっていた私は彼が窒息させようと抱きしめていると思ってもがいた。彼が仕事に行った5分後に救急車を呼んだ。このとき私は全身の血管という血管に注射を何度も刺していたのでアザだらけで、食事もろくにとれていなかったため2週間で体重がさらに6キロほど減り160センチに対して42キロだった。

私はギリギリ息をしながら救急隊員さんに、覚醒剤をしましたと言った。隊員さんは、自分が何を言っているのかわかってるのか!と私を怒鳴りながら搬送してくれた。

その後私は病院でしばらく休憩していると急に息苦しさがなくなったので、そのまま警察に連行された。

 

捕まった後は、留置所で2週間ほど過ごした後から鑑別所へ行き、1ヶ月の間に何度か家庭裁判所裁判員と話をして少年院行きが決まった。裁判官さんには、「あなたはこんなところにいるべきじゃないけど、あなた次第で変われることを学んで欲しい」と言われた。

少年院に入るときの健康診断で、私は急性B型肝炎と診断されて、本当は入院しなきゃいけなかったけど少年院の都合上、2ヶ月くらい単独寮でベット上絶対安静だった。幸い、肝臓が強かったため自覚症状がなく自然治癒した。

少年院で私は通常より1ヶ月遅延して12ヶ月後に出院した。実際真面目に生活していても、出院が延期になることは珍しくなかった。少年院に入ってから12ヶ月間、ずっと生理がこなかったけど、出院した途端に元通りになった。

少年院にいる間に高認試験に合格し、Word Excel漢検の二級資格を取得した。販売士三級も簡単に合格した。1年間毎日自分と過去に向き合って、教官の指導を受けながら私は信じられないくらい心が入れ替わった。あまり返信はこないけど、よく母に手紙を出していた。その手紙の中で、私が出院したらまた2人でやり直そうと言ってくれた。それがとても嬉しくて、そのためだけにどんなに理不尽なことがあっても少年院の厳しい規則を遵守した。

けど、やっとの思いで出院した当日、母と1年ぶりの再会に喜んでいたのも束の間で、夕方には母は彼氏の家へ行ってしまい私は家で1人になってしまった。

それからもずっと母は週に一度帰ってくるかこないかで、寂しかったけど私はお寿司屋さんでバイトを始めた。

けど、1ヶ月経った頃に心が折れて辞めてしまった。それと同時に過呼吸になるようになった。深夜に急に脈拍が飛んで、息ができなくなった。これは死ぬんじゃないかと思った私は必死で母に電話をかけた。母は、2時間後に家に来てくれた。その時私はなんとか落ち着いていたけど、息苦しかった。

そんな私を置いて母は深夜に彼氏の家へ戻っていった。それから母は月に一度しか家に帰って来なくなった。

それからすぐに彼氏を作って同棲するようになった。1人でいるのがとても不安だったから。しばらくは過呼吸はなかったけど、2ヶ月ほどしてから再発した。再発してからは慢性化してしまって、一人でトイレに行くのもお風呂に入るのもできなくなった。常に彼氏がそばにいなければ不安で息苦しくなってしまっていた。

 

出院してから3ヶ月後くらいから彼氏と一緒に心療内科に通うようになった。過去の出来事を話すのは辛くはなく、とにかく息苦しさを解消したかったため薬を処方してもらった。それから何度か引っ越しながらも、5年目になる今でも毎月心療内科に通って薬物療法をしている。どこかへ出かける時は必ず頓服薬を持つようにしていて、家の中にもいたるところに置いている。

 

それから2年半付き合った彼氏と別れ、しばらく近所の人に支えられながら一人暮らしをした。この頃から毎日お酒をたくさん飲むようになっていった。一年くらい経ってから、また彼氏を作って同棲を始めた。

私は誰かに、特に男性に頼らなければ生きられないのだと思った。他人に助けられるのと恋人に助けられる生活は全く違う。

できる限り自分でバイトをして稼ごうと何度も試みているけど、結局仕事中や出勤前に体調を崩して長続きしない。職場にも恋人にも迷惑をかけてしまう。おまけに家では気分の波があり家事もできたりできなかったりで、毎日お酒を飲むのをやめられない。